どうも、まんぼうです。
こどもの日に食べるお菓子なら、柏餅よりもちまきが好きなおじさんです。
いや、お前もう子どもやないやろと言うツッコミはさておき。
こどもの日、つまり端午の節句には年中行事としていくつか伝統的なものがありますね。
挙げていくと・・・
- 鯉のぼり
- 五月人形
- ちまき
- 柏餅
- 菖蒲湯
鯉のぼりの由来とその意味とは?
鯉のぼりの起源となったものは戦国時代の旗指し物だと言われています。
端午の節句が五節句として広く定着したのは江戸時代のことだと言われています。
室町時代末期の武家社会では、その端午の節句に虫干しをかねて旗指し物を飾るという風習があったことに由来しているそうです。
本来旗指し物には家紋しか書かれていませんが、武者のぼりには武者絵や鍾馗、金太郎、鯉の滝登りなどが描かれていたそうです。
本来は絵幟(えのぼり)や節句幟(せっくのぼり)というのが正しい呼び名だそうですが、図柄に武者絵が多かったことから武者のぼりという通称がついたんですね。
江戸時代の中期に鯉のぼりの原型が誕生するまでは、この武者のぼりが主流でした。
鯉の滝登りの図柄を描いた鯉の小旗、小旗=まねきと読むそうですが、これが鯉のぼりの原型になったとされています。
まねきは幟旗に付属するものだそうで、幟の上枠の端につけられた小さな短冊状の旗のことだそうです。
(画像参照元:Google画像検索)
わかりやすい画像があったのでグーグル画像検索から貼っておきますね。
左側の武者のぼりの上部に小さな旗がありますね。
右にある鯉のぼりのイメージがここから来ているのがよくわかります。
このような立体的な鯉のぼりが誕生するのは時代はもっと経ってからの明治時代以降になるそうです。
鯉のぼりには一番上に吹き流しというカラフルなひらひらがついています。
画像の吹き流しは5色ではありませんが、一般的には吹き流しは青・赤・黃・白・黒の5色が使われます。
これは古代中国の陰陽五行説に由来しています。
もともと端午の節句は中国から日本に伝わったものなので、こういった中国の思想が残った部分があるんですね。
陰陽五行説については後で説明するちまきにも関連があります。
鯉の色は一番上の鯉が黒であること以外に特に決まりはないのですが、一番上が父親を表していることから2番めの鯉は赤く母親を表す意味とする事が多いようです。
赤い鯉というのはもともと存在せず、赤い鯉が鯉のぼりに加わったのは錦鯉が世に現れた明治時代だとされています。
そして子どもを表す3匹目の鯉を加えた鯉のぼりが現代まで続く鯉のぼりの定番となったとされています。
時々鯉のぼりの鯉に金太郎がしがみついた図柄の物を見ますが、武者のぼりの名残なのでしょう。
五月人形の由来とその意味とは?
鯉のぼりと同様に起源とされる風習は室町時代末期にさかのぼります。
屋外には鯉のぼりの原型となった旗指し物を飾り、座敷には鎧兜を飾るという風習が出来上がってきました。
武具を持たない一般庶民は鎧をもしたハリボテを使い武家社会の風習をまねたことが広く定着した理由だと考えられます。
もともとは人形のない鎧兜を飾っていたものが、人形に甲冑を着せたものに変化していったと考えられています。
鎧兜を飾るという行為のもつ意味は、防具から転じて災厄から身を守る象徴として考えられたからとされています。
いまでも五月人形は人形が甲冑を着たものと、甲冑のみで構成されたもの両方を見ることができますね。
ちまきの由来とは?
ちまきの由来は日本でこどもの日にちなんだものの中で最も古いものです。
その起源はなんと紀元前277年頃までさかのぼります。
ちまきが日本に伝わったのは端午の節句が伝わったのと同時になります。
そもそも中国の端午の節句の行事食であったものが、端午の節句と一緒に日本に伝わってきたんですね。
そのためちまきの由来は日本の武家社会とは関係なく、古代中国の楚の国での故事にちなみます。
当時の楚の国には屈原という人物がおり優秀な人物であったが、王への諫言が元で失脚し、その後屈原の憂いが現実となり楚の国は秦に敗北する事となった。
祖国の将来に絶望し汨羅江(べきらこう)に身を投げて自ら命を絶った。
誰よりも国を憂いた愛国の徒である屈原が魚に食べられてしまわないように笹の葉や、茅萱の葉にご飯を詰めたものを川に流したことがちまきの起源と言われている。
もともとは竹筒にご飯を詰めて流していたが、ある時屈原の霊が川の畔に現れ、竹筒では悪い竜が途中で奪ってしまい私のところまで届かない。だから邪気を払う茅(ちがや)の葉でご飯を包みそれを邪気を払う5色の糸で縛ってくださいと訴えた。
この5色こそが鯉のぼりの項でもでてきた陰陽五行説の5色になります。
ちまきの由来は端午の節句の由来と同じ出来事に関連しているので、端午の節句の伝来とともに日本に伝わってきたというわけですね。
柏餅の由来とは?
柏餅が端午の節句に食べられるようになったのは比較的最近で、江戸中期に柏の葉が新芽が芽吹くまで落ちないことを「子を見守る」に見立てて子孫繁栄の縁起をかついだものとされています。
ここまでに書いてきた3つに比べるとずいぶんと歴史が浅くなりますね。
と言っても350年以上たっているので結構な年季ではありますけども。
柏餅を端午の節句に食べるという習慣は最初江戸を始めとした関東で広がり、それが参勤交代で地元に帰った人たちが広めたとされています。
柏餅と書きますが、柏と言う字は本来別の植物であるコノテガシワを指す漢字だそうで、柏餅を包むカシワは植物の種類としては槲と書くのが正しいそうです。
菖蒲湯の由来とは?
菖蒲湯は、江戸時代に菖蒲と尚武をかけて5月5日を尚武の節日として祝うようになったことから、菖蒲湯に入ると言う風習が生まれたとされる。
昔は5月4日に菖蒲の枕を用いて、5月5日にはその枕の菖蒲を解いて湯に浮かべた菖蒲湯に入るという習わしであったと言われています。
菖蒲は昔か病や邪気を払う薬草だと考えられていたので古来より長寿や健康を願って菖蒲を利用していたとされています。中国では西暦6世紀に書かれた年中行事を記した書物にすでに、菖蒲を用いた行事がいくつか記されていたという。
実際に菖蒲湯には薬湯としての効果があり、菖蒲にはアサロンやオイゲノールという精油成分が多く含まれています。
腰痛や神経痛に効くと言われています。
売られている菖蒲は葉の部分が多いが、実際に薬効成分を多く含むのは根の部分だそうです。
最後に
今回はこどもの日、端午の節句にちなむ行事や食べ物に関して書いてきました。
鯉のぼりは室町時代に起源を持つ武者のぼりが由来。吹き流しの色は、中国の陰陽五行説の五色が用いられている。
五月人形は鯉のぼりと同じく室町時代の武家社会の風習が江戸時代に庶民に広まったもの。
ちまきの由来は端午の節句の由来と同時で、中国の楚の国の屈原のエピソードにちなむもの。
柏餅は古い葉が、新芽が出るまで落ちないことから子孫繁栄の縁起をかついだもので、江戸中期以降の比較的新しいもの。
菖蒲湯は定着したのは江戸時代だが、菖蒲と端午の節句自体の関連は古代中国まだ遡る。
というわけで今回はこどもの日の鯉のぼりや五月人形の意味は?ちまきや柏餅の由来とは?についてでした。
ではまた。
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